2014年2月7日金曜日

2707、「明日、ママがいない」

kurochan@PC ◆朝日の2月2日、大阪本社版と東京本社版に、正反対の投書があった。大阪版では中止を求める投書、東京版では打ち切り反対の投書だった。どちらの意見ももっともなように感じはするが、大切なのは、視点をどこにあわせるかだと思う。表現者の意図なのか、表現される者たちの実際なのか。僕は、当事者の子どもたちを苦しめる表現など、いくら言い訳しようが、表現者を気取る者の自己満足ではないかと思う。えてして表現者を気取る者は、自らの表現を縛るものを攻撃したがる。沈黙を強いられる者たちの痛みにあまりに鈍感だ。その痛みに応えようとする表現こそが表現の名に値するのではないか。「表現の自由」といいながら、他者の「表現の自由」を圧殺していることに気づけない点において、ヘイトクライムと同じ構造ではないかと考える。実際の子どもたちを沈黙させ、頭をたれさせるなら、大手マスコミによる独りよがりの「社会的いじめ」といってよいだろう。本人が「ポスト」と呼んでくれという設定は、あくまでシナリオであり、水平社宣言のような「ポストであることを誇りうるときがきたのだ」 という当事者の立ち上がりとは無縁だと思う。幼い子どもは時として残酷であり、深い意図をくみ取れずに、残酷な言動をコピーする。言論封殺には断固闘うつもりだが、この番組が子どもたちに与える負の側面が心配でたまらない。みなさんは如何お考えだろうか?

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