2013年1月18日金曜日

2631、あれから18年

kurochan@PC
◆阪神淡路大震災から18年。当時生まれた子どもたちも、そろそろ高校を卒業する年齢。毎年この時期に、授業で当時のことを語ってきたが、今の高校生はもう直接知らない世代なのだ。それでも東日本大震災とその報道で、阪神淡路大震災についても子どもたちは情報を得ている。kurochanは被災者ではないが、当時何度も神戸へ通った。高校1年生の担任をしていたが、金曜日は授業がなかったので、木曜の晩に三田回りで神戸に入り、日曜まで救援活動をしていた。ある程度詳しいことは、個人サイトに書き、それを子どもたちに伝えるためのプレゼンも作成しているが、当時、出会った被災者の方々に教えられたこと、全国各地から救援活動に来ていた人々から教えられたこと、それを自分の頭で考え、目で見て、歩いて、感じたことを、今年も授業で特別に語る。いたく感動してくれた生徒達もずいぶんといたようだ。立ち入り禁止のマンションに取り残されていた老夫婦、それを僕に伝えてくれた乳母車を押していたおばあさん、なんと山形から神戸まで軽トラでやってきて竹
箒で道端の清掃活動をしていた老夫婦、
5キロの米と引き替えに配給されたパンをくださったおばさんの心のバランス、息子と新築家屋を失った悲しみを整理できずにお粥をすすりながら淡々と語ってくれたおじいさん、すぐ近くのブルーシートの下で凍えている人に老人用おむつを届けると言っているのに決して渡してくれなかった避難所の担当者、黒塗りベンツを目の前に止め「伊藤ハム」を段ボールごと置いていった暴力団員、通行できる限られた道路を塞いでいる自衛隊のトラックに移動してほしいと言っても「指示があるまで動けない」と断った自衛隊員、自立をめざして路上でカレーライスの販売を始めた夫婦とお粥配給の場所を移動させた僕たち、チームで救援物資を届けて歩いた地元の八百屋のお兄さんと大阪からバイクで来たサラリーマンと須磨の短大生、「厚かましいおばはん」と思いつつポリタンクの水を両手に持って着いていくとテントに横たわる多数のけが人をどうやら一人で面倒見ている人だったことに反省しこちらから歩いて回る必要性に気づいたこと、民族の壁と差別を乗り越えて情報を提供し手を携え
た人々、まだまだあるが、倒壊した家屋や高速道路、焼け野原の長田商店街などの光景とともに、
そこで出会った人々とその心情を子どもたちに伝えたいのだ。◆13日(日)は学校行事で終日主に写真撮影係、14日は朝鮮学校卒業生の成人式、15日は奈良県教委の在日外国人教育講演会、16日・17日は終日勤務校で授業と会議、17日晩は事務局合同の新年会。そして18日は授業のあと、深夜まで事務局。明日は、老母の米寿祝。

0 件のコメント:

コメントを投稿